はじめまして。オフィス ハヤ記のヒロです。
ざっくりと自己紹介をします。
生まれは熊本です。中学3年の1学期まで熊本市で過ごし、その後、父の転勤に伴い札幌市に転居しました。
大学で上京し、在学中に速記は天職ではないかと思ってしまったことから卒業後は都内にあった早稲田速記学校で学びました。 速記学校卒業後は、事情により公務員となったため速記の実務には就きませんでしたが、会議などでは速記を大いに活用し、速記の威力や使い勝手のよさを実感してきました。 令和3年に退官し、現在は日本速記協会の会員として手書き速記の普及に携わっています。
~もう少し詳しく~
上述のように、私は中学3年の1学期まで熊本市で過ごし、その後、父の転勤に伴い札幌市に転居しました。まさか自分が転校するなどとは夢にも思っていませんでしたので、父の転勤は、まさに青天の霹靂でした。
行きたい高校もあり正直参りましたが、当時は父が転勤となれば家族は一緒に行くものでしたので、気持ちを切り替え、夏休みの間に家族みんなで引っ越しました。
転校して最初の授業は数学でした。私が使っていた教科書を先生に見せて、‟ここまで習いました”と言うと、先生が、‟したら、ここわかるべ” と言われたのです。
九州では決して聞かない言葉です。私は何と聞かれたのかがわかりませんでした。
‟わかるべ”と語尾に‟べ” が付いただけでわからなかったのです。前途多難です。
一方、私も、北海道民にとっては ‟?” と思うものを話していました。
例えば、‟それはあった場所になおしました”(それはあった場所に戻しました)が通じませんでした。これが方言だとは思っていなかったのです。
なお、この‟なおす”は今でも出てきます。
そんなこんなで転校先の中学は馴染む前に卒業し、気候、言葉、ひと、食文化も含め違いが多すぎる環境の中、無事に高校を卒業。
そして、大学入学のため上京しました。
日本地図上は、‟火の国”から‟北の大地”へと日本列島を縦断し、折り返して‟花の都 東京”です。
おぼろげながら記憶に引っ掛かっている当時(昭和50年ごろ)を振り返ってみると、
国立大学の授業料が年間12,000円、私立大学の学費は文系で約30万円。
山手線の初乗り運賃は30円で、JRは国鉄と呼ばれていました。
学生は4畳半の風呂なしアパートに住み(3畳に住んでいる友人もいました)、家賃相場は都内が月13,000円程度。入学当時住んでいた千葉県の銭湯は90円。
事務系アルバイトの時給は400円が相場でした。
学生は、特に男子学生はテレビの青春ドラマの影響か、長髪に裾が広がったジーパン、そして厚底サンダルが定番で、神宮球場では法政大学の怪物江川投手が快刀乱麻のピッチングでした。
大学卒業後に高田馬場にあった早稲田速記学校の夜間部で2年間速記を学びました。
きっかけは、大学3年生の時に、なぜか突然 ‟速記は天職だ!”と思ったからでした(その辺のところは、ブログ:楽メモの攻略(13)後半のちょっと小耳に(12)をご覧ください)。そのため、就活も経験することなく、そのまま速記学校へ進みました。
事情により、速記学校卒業後は国家公務員となったことから速記の実務には就きませんでしたが、会議などでは速記を大いに活用し、速記の威力や使い勝手がいいことを実感してきました。
令和3年に退官し、現在はオフィス ハヤ記(速記普及事業)の代表として、また公益社団法人日本速記協会会員として手書き速記の普及に携わっています。
この度の‟楽らくメモ速記”(楽メモ) が皆さんのお役に立ち、加えて手書き速記普及の一助になれば幸いです。